はじめに
ポケモン30周年であったので、ゲームフリークに関する本を読んでみた。
ゲームフリークとはかの有名なポケモンを開発した会社である。
1996年に「ポケットモンスター 赤」、「ポケットモンスター 緑」は発売された。
そんなポケモンはどのように誕生したのか、それを知りたかったのでこの本を読んだ。
この本にはポケモンの生みの親、田尻さんがどのようにポケットモンスターを発売するに至ったのかが記載されている。
ポケモンは任天堂のゲームではあるが、開発元はゲームフリークという会社で、その企画立案もゲームフリークの田尻さんがされていた。
今回の記事では、ポケモンが生まれるまでの軽い経緯とノウハウと、これから何かを生み出すヒントとなりそうだなと思った点をまとめてみることにする。
始まり
1996年の初頭。ゲーム業界のほとんどすべての人間は、今後、ゲームボーイのソフトからミリオンセラーが現れるなどとは考えもしなかった。そんなことは奇跡に等しい事だと思われていた。ところが、奇跡は起こった。
「ゲームフリーク 遊びの世界標準を塗り替えるクリエイティブ集団」
「子供はこういうもので喜ぶのだ」といった打算ではなく、「自分が子供の頃はこういうことに喜びを感じていた」という記憶は「自分が楽しいと思えるものを作るのだ」という確信に変わる。
そして、「Capsule Monsters」という企画書ができる。

この企画案から、「ポケットモンスター」となって、ゲームソフトとして完成するまでに6年間という年月が必要だった。
6年は確かに長いが、当時のテクノロジーで、あのポケットモンスターをたった6年で作ったという事はとても驚くべきことである。
田尻さんは子供の頃、虫取りがとても好きだった。
その好きという記憶、それは、「自分が子供の頃はこういうことに喜びを感じていた」という記憶である。
この記憶は、「子供はこういうもので喜ぶのだ」といった打算からコンテンツを作るのとは、全く違ったアプローチやモチベーションでコンテンツを作れる。
しかし、それだけではポケットモンスターは作れない。
当然、覚悟と責任が必要になる。
ゲームフリーク創業時の資本金はわずか100万円。
これは、1991年に商法が改正される以前では、株式会社を設立するための必要最低限な金額である。
ゲームフリークに限らず、同様のソフト制作会社は自転車操業は当然になる。
そして、この無限の自転車操業から脱出する方法はただ一つ。大ヒット商品を作る事である。
田尻さんはこう言っていた。
「ポケモンはゲームリーク以外では絶対に生まれなかったゲームなんです。普通のゲームメーカーだったら、6年もお前何やってんだってクビ切られるんですよ。でもうちでそれができたのは、俺が責任を持つからとにかくやるんだっていう、僕の経営者としての判断があったからなんですね。だとすれば、経営者かクリエイター化という2者択一で迷うんでは無くて、2つを同時にこなせるように、僕がもっと高いレベルに変化すればいいんじゃないかって考えるようになったんです。」
「ゲームフリーク 遊びの世界標準を塗り替えるクリエイティブ集団」、「アントレ」1997年9月号掲載「未完成の自叙伝」
子供たちの想像力を信じる
ゲームフリークではポケモンをゲームボーイの白黒画面で作ることになんの不安も抱かなかったという。
画面が黒白であっても、数少ないピクセル表現だとしても、想像力の豊かな子供たちならば、悠然と広がる草原を想像し、モンスターの息づく草むらだと感じてくれるはずと信じていた。
ポケモンの交換とは、プログラムデータの交換だが、プレイヤーにはそう思ってほしくないため、ポケモンはゲームボーイの中で生きている大切な仲間という事を表現している。
だから、交換では、別れの切なさを表現したい。
そのために、、
交換する前に、ポケモンがモンスターボールに入る場面をアニメーションで見せる。
ボールに入ったら、それが画面内で一度バウンドして、交換パイプに吸い込まれていく。
パイプの口金は、ゲームボーイのケーブルを接続する位置に合わせて書く。
ケーブルを通過するときに、エコーのかかった鳴き声を響かせてポケモンが別れを惜しんで鳴いている様子を表現する。
子供たちの想像力と制作人たちの工夫によって、ポケモンに息が吹き込まれる。
田尻さんには以下のようにポケモンの世界に向き合っていた。
モンスターっていうのは、この世に存在しないからこそ、どんなものでも作ることができる。
だからこそ単なるツクリモノで終わってしまう危険性もある。
どんなにモンスターを魅力的に描いても、それだけではダメ。
だから「ポケットモンスター」では、ポケモンと人間との関係を明確に表現しようとした。
そのためには、ポケモンに魅力を与えるのと同時に、それらのポケモンと共存している人間のことも生き生きと描いてかなければ、お互いの関係性は見えてこないし、そこに世界は生まれない。
ポケモンの世界の人々とポケモンとのつながり、そして、現実世界での人と人とのつながり。
ポケモンのヒットの理由はそこにある。
つまり、コミュニケーション・ツールとして正しく機能していたから。
ゲームというものをメディアとしてとらえてしまうと、メディアというのは、原則的にクリエイターがユーザーへ向けて情報を提供する一方通行なので、コミュニケーションツールにはなっていない。
ポケモンは「遊びのための道具」としてとらえることができる。
クリエイター側はあくまでも遊びの道具を作るだけだ。
そのあとはユーザーに任せる。
ユーザーたちは自分なりの遊び方を見つけ出していく。
当時はオープンワールドというゲームの概念が無かった。
しかし、現実世界のユーザーたちがコミュニケーションツールとして使うことで、世界を広げることができた。
そして、何より子供たちの想像力がその世界を広げた。
そのためのコミュニケーションに必要なものこそが、交換(コミュニケーションへの入り口)であり、名前を付ける(コミュニケーションの強化)という要素だった。
容量制限の中の工夫
開発当初、用意されていた容量は、たったの1メガビットしかなかった。
この容量の中に、ゲームを動かすプログラム、マップデータ、メッセージデータ、音楽データ、モンスターデータも全て収めなければならない。
当初の1メガビットの容量だと、30体のポケモンでもギリギリの数だったが、それが、1995年、4メガビットROM/256キロビットSRAMへとグレードアップされた。
これは任天堂側の采配ではあったものの、1996年の発売直前の1995年にグレードアップされたのだから、それまでの間は削ることが求められた。
ゲームのおもしろさに直結しないのであれば、音楽のために必要な容量を削ったり、グラフィックのシステム領域を削って、ゲーム性に直接影響する部分に回す。
また、国道のように町と町をつなぐことで、容量を抑えている。
町と町とを直線で結んで、それ以外の部分をデータとして持たなければ、世界全体の広さを損なわず、マップデータを大幅に削減できる。
さらに、このフィールド表現は、視点を変えてみれば、このゲームの世界観を強化できる。
町と町を結ぶ直線の道路を国道に見立てられる。
道端にある「1番道路」という標識を読むことで、プレイヤーはその道が国道であることを知り、同時に、自分の冒険が始まったことを知る。
アイデア
戦闘画面のアイデア
ポケモンの戦闘画面。
画面の奥に、敵のポケモンがこちらを向いて立っていて、画面の手前には、自分のポケモンの背中が見えている構図だ。

その2体が対峙する場面を見つめているのは、飼い主であるプレイヤーの視点となる。
この視点は、従来のゲームにはなかった。
これは「犬の散歩」という日常に転がっている当たり前の風景から、このアイデアを得た。
多様性のアイデア
ポケモンの多くは、恐竜や昆虫、動物、植物などからヒントを得ていて、これらは「種の多様性」を元にしている。
一方で、ワンリキー、バリヤード、スリーパーなどは「機能の多様性」からヒントを得ている。



このような多様性がポケモンの中にバランスよく混在することができているのは、複数のデザイナーの手が入ったから。
最後に
ポケットモンスターの開発が始まった時点から発売までの6年間
ゲーム機の性能は少しずつ改良されていった。
CD-ROMの出現でゲーム容量は大きくもなった。
その間ゲームフリークは、十年前の技術のままでゲームを作り続けていき、10年目にして「ポケットモンスター」が大ヒットした。
これは、ゲーム機の性能がよくなっても、遊びの本質はいつまでもかわらないことの証明となった。

