■読書の記録Note #29 『限りある時間の使い方』▶「人生は短いと敢えて認めることが大切」

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日常で思うこと
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はじめに

皆さんは時間を有効に使いたいですか?

僕は使いたいと思っていました。

そして、同時にそれは”限りある人生の時間の効率の良い使い方”を知りたいということと同意でした。

だからこそこの本を手に取って読んでみました。

結論から申し上げると、危機感と安堵が同時に押し寄せてくるような感覚でした。

この本にも記載されているのですが、人生を80歳くらいまで生きると仮定すると4000週間しかありません。

人が仕事の週末を楽しみに待つのは4000回です。

週末を楽しみにするために今の辛い仕事を耐えることを繰り返すたびに4000のカウントが1つずつ減ってしまているということです。

この危機感を抱くと同時に、この本ではその限りある人生を認めることで今を存分に楽しめるという安堵も抱いたということです。

ということで、今回はこの「限りある時間の使い方」をまとめとして記録したいと思います。

まず、✅生産性という罠について記載します。

そして、その✅罠に対する気づき(悟り)とそれを認めるということについて記載します。、

そして、そのそれを認めたうえで今どうするのかということで、✅今をしっかり生きることで選択もしっかりと見極める

と言った流れで書いていきたいと思います。

最後に✅生産性のパラドックスについて記載しておきます。

生産性という罠

僕は生産性が高い方が人生が充実するものだと思っていました。

しかし、この本を読んで、生産性の極致を追い求めるのではなく、ある程度のところまで行けばいいという思いに変わりました。

生産性とは罠なのだ。

効率を上げれば上げるほど、ますます忙しくなる。タスクを素早く片付ければ片付けるほど、ますます多くのタスクが積みあがる。

そう、生産性は罠だったわけです。

人間は限られた時間を与えられている状態です。

そしてその時間の中で決められたタスクをこなしていく。

だからできるだけ多くの事を成し遂げようと効率(生産性)を求めていきます。

その結果限られた時間を削っていってしまう訳です。

現代人にとって、1時間や1日や1年という時間は、ベルトコンベアで運ばれてくる容器のようなもの。

時間を有効活用するためには、と売りすぎる前にせっせと容器を埋めなければいけない。

やることが多すぎて容器に入らないと、忙しすぎて疲れてしまう。容器が埋まらないまま流れていってしまうと、時間を無駄にしたと感じる。

ちょうどいいペースで容器を埋めている時だけ「時間を管理できている」という気分になり、焦燥感や罪悪感から逃れられる。

これは現代社会という情報過多の時代というのが大きいでしょう。

そして、同時にその忙しさの中で、時間に対して「今」を見ずに「未来」を見るようになってしまっています。

僕たちは時間をあるがままに体験する事(時間である事、といってもいい)をやめて、「今」という時間を未来のゴールにたどり着くための手段に変えてしまった。今はまだ楽しむときじゃない。いつかタスクがすっかり片付いたら、その時こそリラックスして楽しもう、というわけだ。

それは一見、まともな生き方のように見えるかもしれない。厳しい競争社会を生き抜くためには、一刻も無駄にできないと感じるのも無理はない(さらに、ほとんどの人は子供の頃からそうしつけられている。後で楽しむために、今は我慢しなさい、と)。

ところが今を犠牲にし続けると、僕たちは大事なものを失ってしまう。

今を生きることができなくなり、未来の事しか考えられなくなる。

どんなタスクも、時間があればあるだけ勝手に膨らんでいくもの。正確には「やるべきこと」の定義がどんどん広がっていくといってもいい。

これが生産性を極めようとした先にある罠です。

今のタスクを多くこなすため生産性を上げようとする→生産性が上がるとタスクが増えていく→今を楽しむことが先延ばしになる

という罠です。

そして生産性を上がるとそれが自信につながるのも罠ですね。

やりたいことリストに追加できそうな項目を見つけた時、タイムマネジメントに自信がある人ほど迷いなくそれを受け入れてしまう。他の仕事やチャンスを犠牲にしなくても、全部できると思っているから。

そして、またタスクを増やすわけです。

ちなみに、生産性を上げるツールもその罠に陥るきっかけとなる危険性を孕んでいます。

例えば、ネットなんかはいい例です。(あとSNS)

インターネットは時間を有効に使うためのツールだが、その一方で大量の情報を提示し、やりたいことを無限に増やそうとする厄介な代物でもある。

かく言う僕もこうやってブログというものを書き続けています。

ブログを効率的に書く方法はないのかとか、どこかの隙間時間で書けないのかとか考えてしまっています。(ブログを書く時間を減らすことを考える必要があるかもしれないですね。)

やりたいことを無限に増やすだけならまだしも、インターネットは本当にどうでもいい内容で時間を消し飛ばす危険性もありますよね。

特にSNSは。

自分の人生とは、自分が注意を向けたあらゆる物事の総体。

人生の終わりに振り返ったとき、そこにあるのは注意を向けたことたちであって、それ以外の何ものでもない。くだらないものに注意を向ける時、僕たちはまさに人生の一部を削ってそのくだらないものを見ているわけだ。

この罠に陥ってしまう原因は他にもあって。

それはインターネットとかいうツールよりももっと大きなものです。

それは社会です。

正確には資本主義社会です。

(資本主義社会の人は)自分の時間を利益を生むための道具として使うことに長けている。それが資本主義社会での成功の定義だ。ところが時間を有効活用することに躍起になるあまり、彼らは現在の生活を、将来の幸福に向かうための移動手段としか考えられない。現在を楽しむことができない。

人間は注意によって周囲の圧力に惑わされずに行動もできますが、その向ける先を誤ると体験を無駄にしてしまうという罠もあります。

どんなに恵まれた環境にいても、注意の使い方によっては、何も意味もないみじめな人生を送ってしまうということだ。

意味のある体験をするためには、その体験に注意を向けなくてはならない。注意を向けていないことは、起こっていないのと同じだから。

ミシュラン星付きレストランでの最高の食事も、心がどこか別の場所にあれば、インスタントラーメンと変らない。誰かと一緒にいても、自分のことしか考えていなかったら、一人でいるのと同じ。

そして、これらの罠にまずは気づくことが大事です。

この気づきは一種の悟りように思えます。

罠に対する気づき(悟り)とそれを認めるということ

上述した罠に対する気づきとは「人生は短いということ」です。

まずは人生とは短いということに気づかないといけないです。そしてそれを認めることです。

みんな何らかの現実を直視するのが怖くて、それを避けるために生産性やタイムマネジメントにしがみついているのではないか、ということだ。

人によって不安の対象は違うけれど、核心は同じ。

この人生しかないということ。

この欠点だらけで、傷つきやすくて、ものすごく短くて、思い通りにならない人生が、ただ一度きりのチャンスだということ。

その事実を僕たちは認めたくないのだ。

人生は短いのだということに気づき、一度きりの短い人生を、短いと認める所で充実した人生の一歩が踏み出せるわけですね。

逆にそこから目を背けて生産性を求めた先には、人生はいっそう空虚で、不満だらけになってしまいます。

例えば、急げば急ぐほど、時間のかかる仕事にイライラしたり、計画を完璧にこなそうとすればするほど、小さな不確定要素への恐怖高まったり、時間を自分の自由に使おうとすればするほど、人生は孤独になっていったり。

だからこそ、生産性を求めないことこそ究極の時間管理なのですね。

自分には限界がある。

その事実を直視して受け入れれば、人生はもっと生産的で、楽しいものになるはず。

もちろん、不安が完全になくなるわけではない。限界を受け入れる能力にも限界はある。

だとしても、これだけは自信を持っていえる。

現実を直視することは、他の何よりも効果的な時間管理術である

なんかやっぱり結構、哲学っぽいですね。(結構この本には哲学者の考えも引用してます。)

そして、現実を直視して生きていても、当然ながら、厳しい選択は当然訪れます。

どちらをするかを選択するときです。

ただ、この時、両方やろうとは思ってはダメです。

タフな選択はいつだってやってくる。大事なのは、意識的に選択すること。何に集中し、何をやらないか。どうせ全部はできないのだから、少なくとも自分で決めた方がいい。

もうひとつ大事なのが、「選択肢を確保する」という誘惑に負けないこと。選択肢を増やすというのは、要するに困難な決断から逃げることに他ならない。

人生は短いと認めてるのであれば、その選択のどちらかを選んで、今の体験に注意を向けて、心の底から楽しむんです。

必要なのは効率を上げる事ではなく、その逆。

すべてを効率的にこなそうとするのではなく、すべてをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だった

これは人生のあらゆることに当てはまる。楽しい事をすべて体験したいという衝動に打ち勝ち、すべてを体験するのは不可能だという現実を受け入れる。自分に体験できるのはほんのちっぽけな一部だけだと理解していれば、まだ体験していないことがたくさんあっても焦らなくて済む。自分に許された数少ない体験を、心から楽しめるようになる。

やるべきことはいつだって多すぎるし、これから先もそれはきっと変わらない。その中で心の自由を得るための唯一の道は、「全部できる」という幻想を手放して、一握りの重要なことだけに集中すること

今をしっかり生きることで選択もしっかりと見極める

人生を短いと認めた後には、人生でやるべきことを選択することが迫られます。

だからこそ選択を見極めるのはとても大事です。

これだと思うものを絞る事です。

皮肉なことに、人は後戻りできない状況に置かれた方が、選択肢があるときよりも幸せになれるというデータがある。手持ちのカードを多く残しておくよりも、「これしかない」という状況の方が満足度が高まる。

選択をいつまでもせずにいつかそうなるだろうと今を生きていないのはとても駄目な事です。

今は準備段階だと思うことはダメということですね。

選択をできるだけ早く絞ること。それがすぐできないのであれば、自分が進むべき選択肢を並べて考える時間を今すぐとるべきですね。

現在の生活を「いつかそうなるべき自分」への途中経過と捉える態度。

今が人生の本番であるという気まずい真実から目をそらし、親や世の中の期待に応えられる自分になるまでは、準備段階のつもりでいるのだ。

ということで以上から、「時間は短いと認め、選択肢を見極め、今をしっかりと生きること」が本の主だった主張になると思います。

生産性のパラドックス

最後に生産性のパラドックスについて記載しておこうと思います。

まあ生産性のパラドックスってのは僕が作った造語のようなものですが、人は生産を上げれば幸せになれると思ってしまうのは、その背後にあるパラドックスによるもののような気がしてなりません。

ということで生産性のパラドックスだと思ったところをピックアップして今回のまとめは終わろうかと思います。

便利さの支配が広がるにつれて、日々の活動はだんだん二極化していく。一方には、凄く便利になったけれど、退屈だったり自分の本来の好みに合わないことがある。もう一方には不便なままにとどまり、そのせいでものすごくイライラすることがある。

まったくおかしな現象だ。蒸気機関からブロードバンドに至るまで、ありとあらゆる新技術が高速化をどんどん推し進めてきた。本当なら、僕たちは時間には余裕が生まれ、焦らずにゆっくり生活できるはずではないのか。ところが人々は、もっともっと速く動くことに夢中で、これまでに節約してきた時間をありがたく思う暇もないみたいだ。

余暇を有意義に過ごそうとすると、余暇が義務みたいになってくる。それでは仕事とまるで変わらない。


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